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片付け壱番屋社長インタビュー「私にとっての文京区」

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総合リサイクルショップ”めだま家”を展開し、3年前よりスタートさせた不用品回収サービス”片付け壱番屋”を同時に運営。今回は株式会社メルティングポットの社長、竹本氏にリサイクル業にかかわりはじめたきっかけ、起業に至る経緯から中小企業経営者としての悩みや苦労、そして生まれ育った土地でもある文京区への想いなど、様々なことについて語っていただきました。

 

 

Q: まずは社長がリサイクル業界にかかわりはじめたきっかけを教えてください。

 

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17年くらい前にそれまで勤めていた仕事も辞めていて何もするあてもなかった時期に、「なにかしなきゃ」と思って、電気屋さんや一般のご家庭で要らなくなった家電を回収して、中古家電を海外に輸出している業者さんに売りに行く仕事をはじめたのがきっかけですね。

 

Q: それ以前は出版取次の会社でいわゆる普通のサラリーマンとして勤務されていたんですよね?

そうですね。もう大分昔の話で、20歳のころから6年位、会社員として毎日ネクタイを締めて出勤していた時期がありました。だから今でもネクタイの締め方だけはきちんと覚えています(笑)今思い起こすと、ネクタイを毎日締めていた自分のことが不思議に思えますね。もともと映画製作の専門学校に通っている時にアルバイトをしていて社員にならないかと誘われて、なんとなく入社したのがきっかけです。

 

Q: その頃から、いつかはご自身でなにか事業をはじめたい、といったお考えはあったんですか?

 

6年間位、なんとなく流されて働いていて「なんかつまらないなあ」と思い始めて。それで、会社を辞めたんです。その後、あの当時(80年代)に御茶ノ水に映画監督の今村昌平が設立した映画専門学校があって、その一期生だった当時の友人と一緒になにかやろう、ということで映画を作ったりしていましたね。でもそのうちに、映画じゃこの先やっていけないよなあ..となんとなく思うようになって。その後数年間は色々なアルバイトをしたり、ブラブラしたりして過ごしていたんですが、正直なにをやって生活できていたのかもよく覚えてないですね(笑)例えばその時やっていたオフィス清掃のアルバイトがきっかけで、使用済みトナーに需要があることがわかって、不動産屋さんや一般企業に「売ってくれませんか」って営業したりしていました。どこにも相手にしてもらえませんでしたが(笑)

 

Q:  時代もありますが、いわゆるフリーターとしてアルバイト生活をしている人だと、もっと稼ぐためにシフトを増やそうとか、なんとか正社員になる道を探すといった人が多いと思います。使用済みトナーに需要があるとわかっても、それを自分でなんとかして仕事にしよう!と思って実際に行動に移すのはなかなかできないと思います。

 

フリーターとして働いてはいましたが、もちろんこのままじゃマズイと感じてはいました。ただ、ブランクもあったし年齢的にも一般の企業に就職してやっていくのはこの先難しいな、と感じていて。自分でなんかやらなきゃ終わりだな、と思って色んなことに手を出していました。どん詰まってたんだよね。清掃会社の同僚だった中国黒龍省の友人のツテで中国の健康茶の輸入販売をはじめたこともあったし。自分でラベルを作って、一軒一軒飲食店を廻って何とか置いてもらえるように営業したり…でも全然うまくいきませんでした。一年間アルバイトのかたわら続けていましたが、こんなことやってたら絶対食えないな(笑)と思って、やめました。

 

Q: その後、家電の回収業をはじめたのがきっかけになってリサイクルショップを開業するに至ったんですね。

 

そうですね。今でも見かけますけど、もともとはスピーカーつけたトラックで流しながら廻って集めていたような感じです。ある日、「冷蔵庫とかも引き取ってくれるの?」って聞かれた時があって、その時は大きな家電の引き取りはしていなかったんですが、ふと「自分で売ればいいんじゃないか」と思い立って、ならお店を開こうということで借金をして練馬にリサイクルショップをオープンしました。当時はお店のことなんて何もわかっていなかったし、何もかもが手探りでした。

 

Q: リサイクルショップの事情も今とはだいぶ違うと思いますが、当時のリサイクル業界はどういった状況だったんでしょうか?

 

私がはじめた頃は、すでにリサイクル業界も下火になっていたと思います。バカでも成功する、といったら言い過ぎですが、リサイクルショップを開けば誰でも儲かる!みたいな時代もあったみたいですね。物は今よりかんたんにいくらでも集まったし、中古の冷蔵庫や洗濯機が飛ぶように売れていました。今みたいに安く新品の家電も手に入りませんでしたし。でも、昔ながらのやり方で冷蔵庫や洗濯機の買取販売だけを続けているお店はどんどんなくなっていきましたね。ずっと同じやり方で続けているお店はどんどんと取り残されてしまっていると思います

 

Q: それでお店の商品も古着中心にシフトしていったりと、時代の趨勢を鑑みつつ常に新しい方法を模索しながらアクションを起こし続けていることがお店を長年お店を継続できている理由ということですね。

 

お店の運営は本当に難しいです。ただ、なんというか危機管理能力みたいなものは常にありました。「このままじゃマズイ」と思ったらすぐにやり方を変えて危機をなんとか免れてきたというか…ネズミみたいなものですね(笑)

 

Q: なるほど。リサイクルショップを運営していく中で、たくさんのお客さんの家を訪問して不用品の回収・買取をする機会があったかと思いますが、特に印象に残っているお客さんとのエピソードがあれば教えてください。

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練馬の有料老人ホーム、民間の経営で入居するのにかなりのお金がかかるような施設から不用品回収の依頼を頂いた時の話です。その施設に入っていた方がお亡くなりになられてご家族の方から依頼を頂いた時のことです。全個室のものすごく高級感のある施設でした。でも、不思議とそのお仕事については印象が薄いんです。

そのご依頼とは別に、同じ練馬区で別の老人ホームに入ってらっしゃった方のご家族から不用品買取の依頼を頂いたんです。こちらは、決して高級感のある施設というわけではなく、もっと庶民的な雰囲気でした。入所されていた親御さんはもう先が長くない、ということで運転手のお仕事をしていらっしゃた息子さんからご相談をいただいたんです。その時に息子さんから「お袋の私物で、こんなものがあるんですけど..引き取っていただけますか」と大きな行李(こうり:物入れ)を出してくれた時のことです。その中に、たくさんの切り絵が入っていました。親御さんが趣味で続けていた切り絵をしまっていたものだったんです。
なんというか、その時にご家族の想いというか愛情みたいなものを強く感じたんです。人の一生について、すごく考えさせられました。人生っていろいろな段階があるけど、終わってみれば一瞬なんだなと。でも、その親御さんは、その息子さんに最後まで面倒を見てもらって「すごくいい人生だった」と思えたんじゃないかと、感傷的な話になってしまいますが自分の母親も今、文京区の特別養護老人ホームに入っていることもあって、その時のことは今でも鮮明に覚えています。でも、そういった仕事を通して触れさせて頂いた「人間ドラマ」は挙げればきりがないですね。

 

Q: 日々のお仕事の現場で人生の意味についてじっくり考えさせられる、という仕事もなかなかないと思います。社長のエピソードからはリサイクルショップの運営や不用品回収というサービスが、ある意味で一般のご家庭のすごくプライベートな部分で必要なサポートを提供するというお仕事だということを改めて感じます。

 

そうですね。まさに「人間交差点」です。

 

Q: わかりました。もう一つ、長年経営者として事業を継続していく中で様々な苦労をされていらっしゃると想いますが、その点についてよければ聞かせてください。

 

挙げればキリがありません。当然お店をやっていれば、いろいろなトラブルがあったり、時には事故もあります。弁護士さんを雇うわなければいけないこともしばしばありました。自分で事業をやるとなると勿論、相応のリスクに直面することはあります。でも、それは当然引き受けていかなければいけないことですし、普通に雇われて決まったお給料をもらっている方には、得られないような成功体験や達成感もあるとおもいますから。

 

Q: 話は変わりますが、今回不用品回収サービスの対応エリアを文京区に拡大するということで、新しい部門とホームページを立ち上げられたとうかがっています。社長は生まれ育ちがもともと文京区だったということで、やはり地域への特別な思い入れのようなものがおありだったんでしょうか。

 

実は、生まれ育った文京区に対してもともとはあまり親しみを感じられなかったんです。実家の父親とけんかして家を飛び出してしまったこともありましたし…学友には常々「お前はここにはあわないよなあ」といわれることもありました。何か自分でも違和感を感じていた部分があったと思います。

 

ただ幼い頃、戦後間もなくでしたが、自分の家の裏に原っぱがあって、そこから見える土手の風景やそこで遊んだ時の楽しかった思い出を今でも鮮明に覚えているんです。その頃、まだ残っていた防空壕の傍にビワの木があって、なんだか「三丁目の夕日」みたいな情景が広がっていました。

 

でも、中学に入った時にその原っぱに大きなマンションが建設された時に、その風景はあっという間に消えてしまいました。その時、お金の力というか世の中の道理みたいなことを痛切に感じたことを覚えています。マンションが建った後は、窓を開けたら土手が見えるどころかもう真っ暗です。辰巳ヨシヒロ(漫画家)の作品みたいなイメージですね。自分の遊び場が一瞬にして潰されてしまったけれど、世の中ってこういうものなんだなと。良い悪いではなく。

 

だから、その幼い頃に遊んでいた原っぱや防空壕の風景が寺山修司の「田園に死す」じゃないですけれど、今でも原風景とのようなものとして記憶に残っています。

 

あとは、小石川にある私の実家の近くに氷川という川が流れていて、その川を挟んで東大の所有していた植物園があったんです。当時、その氷川と植物園の間に小さな集落があって、茗荷谷から大塚のあたりまで続いている細長い地域でした。その地域が、幼い自分に本当に多くのことを教えてくれたと思っています。そこは所謂在日朝鮮人の方がたくさん住んでいた小さな集落で、「氷川の向こう側にいる人たちとは付き合っちゃだめだよ」みたいなことを両親にも言われたり。でも、子供の時はそこに友達も大勢いたし、よく遊びにいっていました。
その時の光景は今では考えられませんが、自分達で掘った2メートルくらいの穴にトタン屋根を立てて住んでた人がいたり、夕方になると軒先で魚を焼き始める人がでてきたりと、すごく印象に残っています。明らかにその地域だけ、周りとは違っていました。

 

Q:今では想像もつかない風景ですね。幼いながらも世の中の色々な不条理や道理といったことについて考えさせられるきっかけを与えてくれたような、特別な場所だったということでしょうか。

 

そうですね。両親から「あまり川の向こうには行かないように」とか言われたりすることが不思議で仕方がありませんでした。「どうしてだろう」と思いつつ、成長してから世の中に歴然と存在している差別といったことについても、考えさせられるようになりました。

 

Q:印象的なお話をありがとうございます。最後に、もうひとつだけ聞かせてください。15年以上、会社を経営されていて、たくさんの若い従業員の方と一緒にお仕事をされてきたと思いますが、「将来は自分で何かやりたい!」「お店を開きたい」といった志を持っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。そういった志を持った若い方に向けてアドバイスや伝えたいことなどはありますか?

 

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うーん。それはもう頑張るしかない、としか言えないですね。。人それぞれ持って生まれた資質も、やり方もモチベーションも違うし、適当にやってればうまくいくんじゃないですか?(笑)何かアドバイスしてその通りにやったとしてもうまくいくとは限りませんし、当然失敗することもあるでしょう。ただひとついえるのは、やらなければ失敗もしないけど、成功もしないということですね。


Q:ありがとうございました!

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